君が誰かを好きになっても
ロマ日。
学園です。奥さんの曲から。多分今度ロマサイド書きます。
学園です。奥さんの曲から。多分今度ロマサイド書きます。
君が誰かを好きになっても
夏の日差しが放課後の校舎を照らし付けて、すこし陰った教室の中、揺れるカーテンが机の上を撫でて行く。
もう誰もいなくなった教室で、ひとり、窓から空を見ていた。
遠くの方で、誰かが話している声や、野球部の声、サッカー部のかけ声、いろんな声が音楽のように降り注いだ。
グラウンドの遠くの方で、力強く走り抜ける彼を見つけて、目を細めた。
ぽわぽわと浮かぶ白い雲のように自由で明るい彼は、親友だと、信じていた。
好きだと告げられたその日は、何を言う事も出来なくて、目も会わせる事も出来なかった。そのまま何も言わずに、踵を返して、いつも一緒に帰っていたのに彼を待たずに一人、校舎を後にしたのだ。けれど、その後、きっと彼が傷ついたのだろうとか、彼の傷ついた顔だとかが脳裏をよぎって、どうしようもなく自分も傷ついたのだった。
ちゅうぶらりんな感情で、彼の言う、「好き」というその感情が、自分には理解できなかった。カレーが好き、数学が好き、英語が好き、あそこのなんとかが好き、アントーニョさんが好き、フェリシアーノくんが好き、ルートヴィッヒさんが好き、その好きと何が違うのかも、解らなかった。
ただ、自分の、ロヴィーノさんへの独占欲だとか、そういうものが少しあって、彼が遠くで、誰かと話しているのを聞いて、見て、胸が痛くなった。
きっと、だれかに相談したら、答えが見えたのかもしれないが、どうすることもできなかった。
「本田、まだ残ってたのか」
担任の、アドナン先生がひょっこりと顔を出した。
「ああ、すみません、アドナン先生。もう、行きます」
ゆっくりと、最後の最後に彼の後ろ姿を目に焼き付けて、窓の外から目をそらした。立ち上がって、隣に置いていた鞄と、荷物を持つ。
アドナン先生はふうとため息をついて、にっと笑った。
「そんな細腕で。俺が持ってやらあ。」
彼と、放課後、ヴァルガス兄弟とアントーニョさんを待つ間、話すのも今日で最後だろう。
「ふふ、すみませんね、先生?」
「何だ、最後くらい普通に名前で呼べってんだ」
「あっはっは・・・・。サディクさん、ありがとうございます。いつもいつも」
歳のは慣れた彼は、幼馴染みで、彼が居るからこの学校を選んだと言っても過言ではない。
「はあ、寂しくならあな・・・・お前さんが居ねえとなると、俺もそろそろ辞めてもいいってことだけどよ」
「おや、辞められるんですか?・・・もしかして、例のお菓子屋さんを?」
彼の夢は、お菓子屋さんだ。見かけに似合わず、というのは言わない約束だ。
「・・・・・変わらないものって、ないんですね・・・皆、変わって行ってしまう。ずっと同じでは居られない、んですね」
友達でいたい、ずっとこのままでいたい。大人に成りたくない。この時間がずっと続いて、進まなくたって良いのに、否が応でも時間は進んでしまうから。
嬉しかった事も楽しかった事も、切なかった事も、いつしか曇りガラスの向こう、おぼろげな記憶に成って思い出になって、そしていつか、消えてしまう。
この一言の中に潜むおおきなものに気がついていたのか居なかったのか、サディクさんは、荷物を持っていない大きな左手で、幼かった頃と同じように、頭をゆっくりとやさしく撫でてくれた。
「あり、がとうございます・・・・ありがとうございました」
住み慣れたこの家、学校から帰る道筋。
彼を待って帰るのが遅くなった帰り道、初めて話した放課後。
いざ、離れるとなると、強く蘇るから困る。泣かないと決めたというのに、後から後から涙はあふれて落ちた。
「ロヴィーノくん、」
彼がゲームセンターで悪戦苦闘して取ってくれた携帯電話のストラップを撫でた。
あの日、皆でカラオケに行った帰りに、ゲームセンターに寄ろうとアントーニョさんが言ったのだ。フェリシアーノくんは皆でプリクラを撮るんだと言って聞かなくて、女子高生ばかりのコーナーに男4人でわやわやと入って行って視線が恥ずかしかった。ロヴィーノくんは、あれこれUFOキャッチャーで取ってくれるアントーニョさんにむすっとしながら、俺だって出来ると言って、何回もやり直してこのストラップを取ってくれた。
携帯電話の裏には、女の子の携帯電話みたいだねと言いながら、フェリシアーノくんが手ずから貼ってくれたプリクラが何枚もある。
「ふ、ぅうう、うえ、」
離れたくない、変わりたくない、そう思うのに、忘れてしまえば良いと思うのに、何も無かった事にしてしまえばいいのに、そう考える度に、皆でいた筈の記憶が、ロヴィーノくんだけ色を濃くしたように輝いてライトをあてて流れるのだ。
ああ、好きだったんだ、これが好きってことだったんだ。
そう思っても、遅い。
「菊兄・・・・耀さんがもう行くっていってるネ」
蹲っていたその地面に、影ができた。泣いているのを見ない振りをしてくれている。
「・・・はい。わかりました。」
家の鍵を最後に閉めて、従兄弟の借りた大きな車に乗り込む。
「・・・・・あの、耀さん。私、電車で行ってもいいですか?最後に一度、学校を見てから行きたいんです。サディクさんにももう一度だけ挨拶がしたいですし、グプタさんにも、ヘラクレスさんにもまだ言ってませんから・・・」
扉を閉めようとして、手が止まってしまった。
一度だけ、きっと彼はもう帰ってしまっているだろうけれど、一度だけ焼き付けてから去りたかった。
「・・・しかたないアルね。これ、持って行くアル。」
いつもケチな従兄は、こんな時だけ気前がよくて、電車賃を握らせてにんまり笑うと、さっさと発進していった。
昼間、帰って来た道をまた戻る。
挨拶がしたいというのはただの口実で、本当は、どこかで遊んでいるかもしれない彼らを、遠目にでも見たかったのだ。
会えなかったとしても、一緒にいた場所を目に焼き付けて、思い出さなくてもいいくらいに鮮明に見ていたかった。
ここの角が、いつもロヴィーノくんとフェリシアーノくんが迎えに来てくれた場所、あそこの踏切を超えたところがアントーニョさんとの合流地点。
皆で一緒にそこから歩いて、校門の手前まで、いつもロヴィーノくんが後ろに乗っけてくれていた。運がわるければここでフランシスさんが襲って来て、ギルベルトくんが頭を叩いてくる。ロヴィーノくんが2人を蹴って、それで怒るんだ。
今日で、お別れだ。
明日から彼らが過ごすのは、自分の居ない時間で、ロヴィーノくんもフェリシアーノくんも、あの角で私を待つ事は無いし、そりゃあ、明日は彼らは知らないから待ちぼうけをさせてしまうかもそれないけれど、アントーニョさんと私を抜いた3人で登校するのだ。
校門から眺めていた教室のある場所が、不意に窓が開いて、もう居ないと思っていたのに今一番会いたくて会いたくなかった人がいた。
「菊?」
彼がここまで来るのには時間がかかる。だから、その間に逃げてしまえば問題ないと思うのに、まったく体は言う事を聞かなかった。
早く行かなければ、彼がここまできてしまうのに、足が接着剤で付けてしまったみたいに、地面から動かす事ができなかったのだ。唯一できたことと言えば、首を動かして下を向くことだけだった。
「おい、どうした?・・・お前も忘れもんか?」
そうこうしているうちに、息を切らせてかれは目の前に迫っていた。
「え、あ、ははあ、そっ!そうなんです、ちょっと忘れ物を」
我ながら見え透いた嘘だ。声も裏返った。
「・・・・・あ、そうだ、あの、明日なんですけど、明日はちょっと用事があるので・・・一緒に登校できません・・・」
「何だよ、用事って?・・・病院かなんか行くのか?」
「そうじゃないんですけど、そういうことですから、待ってなくても平気です」
強引に押し切ると、ふうん、とむっと様子で答えた。
「・・・で、何でお前、こっち見ねーんだよ」
「・・・」
早くさっさと行ってくれたらいいのに、こんなところで妙に勘がいいのだ。
はやく行ってくれないと、涙がこぼれて落ちそうなのだ。
明日から自分の居ない時間を生きる彼らを思うと、胸が、息が出来ないくらいに詰まる。
「この前の・・・お前のこと好きっていうのは本当だし、お前が俺だけ見て欲しいと思ってんのも嘘じゃねーから訂正はしないからな。・・・でも・・・ソレが原因でお前と離れることになんのはごめんだし、お前が元気ないのも嫌だから、別に無理していい返事しようとすんなよ?」
涙が、落ちた。
どうせ明日からもう会えない。残酷だろうか、でも、いまこの気持ちを伝えたくなった。こんなに苦しい思いをさせた張本人に。
「好きです。」
涙でぐちゃぐちゃだろう顔ではっきりと見据えた、緑色の宝石みたいな眸は輝いていた。
この先枝分かれした道で、彼が誰かを好きになっても、一度だけでも自分を好きになってくれたこの事実さへ胸にあれば、それで十分だ。
初めて重なった唇は、とても熱く、湿っていた。
「本田さん、おはようございます」
夢だった図書館の司書になってもう何年か。
あの街にはそれから一度も戻っていない。
戻る事ができない、というのが正しいかもしれない。今も鮮明で、時には誇張されて目の前に蘇るその日々が、現実に時が流れた姿で目に映ったら壊れてしまう気がしてならなかったからだ。
あの後、幼馴染みのサディクさん伝てに、転校したのだと知らされた彼らは、皆、どうして言ってくれなかったのかと一様に落ち込んだと聞いた。ロヴィーノさんが一体どういう反応をしたのかは、知らされなかった。
「おはようございます。ティノさん、ビョルンさん、ベールヴァルドさん」
後輩の彼らを差し置いて、古株の自分は、図書館に一番乗りで出勤するのが密かな喜びなのだ。誰もいない図書館に、ひっそりと一人だけいるというのがどうしようもなく好きなのだ。
前に、あの学校に通っていた時、朝一番で図書館に行った事がある。
理由はなんだったのかは忘れたが、なにかで朝一番にいったのだ。
職員室で鍵を借りて、誰もいない図書館に入った瞬間、古い本独特の匂いだとか、埃が光に反射して光っているようすだとか、そういうのがどうしても好きでたまらなくなった。
それぞれの仕事を始める彼らを横目に、膨大な本を収納している本棚へと顔を向けた。
今も変わる事無く、記憶は鮮明だ。
彼は、今どこで何をしているんだろうか。誰か綺麗な女の人と結婚して、幸せな家庭でも築いているんだろうか。
あのとき側に居てくれた誰もが、きっとそれぞれ別の人生を歩んでいる。そっと目を閉じた。
「すみません、貸し出しをお願いします」
カウンター業務は忙しい。書庫とカウンターをひっきりなしに行き来して、貸し出しと返却、本棚に戻す作業を繰り返す。
はいはい、っと眼鏡をかけ直して顔をあげた。
その、先に。
「ロヴィーノ、くん・・・・?」
カウンターで貸し出しを待つ人のその向こうに、見覚えのある姿が見えた気がしたのだ。怪訝な顔をしているその人を、後ろのベールヴァルドさんに目線で任せて、追掛けた。
追掛けたのに、図書館を出てみたら、彼はもう居なかった。
あの日と同じように、夏の日差しが柔らかく陰り始めたオレンジ色の光が建物を照らしていた。
あの場所とは遠く離れたこの土地だ、まさか偶然でも再開する筈も無い。
少し疲れているのだろうか。そう思って、踵を返した。
あの日と同じように、涙が流れそうだ。
泣かないようにと上を向いたら、ほわほわと白い雲が風で流されていた。
夏の日差しが放課後の校舎を照らし付けて、すこし陰った教室の中、揺れるカーテンが机の上を撫でて行く。
もう誰もいなくなった教室で、ひとり、窓から空を見ていた。
遠くの方で、誰かが話している声や、野球部の声、サッカー部のかけ声、いろんな声が音楽のように降り注いだ。
グラウンドの遠くの方で、力強く走り抜ける彼を見つけて、目を細めた。
ぽわぽわと浮かぶ白い雲のように自由で明るい彼は、親友だと、信じていた。
好きだと告げられたその日は、何を言う事も出来なくて、目も会わせる事も出来なかった。そのまま何も言わずに、踵を返して、いつも一緒に帰っていたのに彼を待たずに一人、校舎を後にしたのだ。けれど、その後、きっと彼が傷ついたのだろうとか、彼の傷ついた顔だとかが脳裏をよぎって、どうしようもなく自分も傷ついたのだった。
ちゅうぶらりんな感情で、彼の言う、「好き」というその感情が、自分には理解できなかった。カレーが好き、数学が好き、英語が好き、あそこのなんとかが好き、アントーニョさんが好き、フェリシアーノくんが好き、ルートヴィッヒさんが好き、その好きと何が違うのかも、解らなかった。
ただ、自分の、ロヴィーノさんへの独占欲だとか、そういうものが少しあって、彼が遠くで、誰かと話しているのを聞いて、見て、胸が痛くなった。
きっと、だれかに相談したら、答えが見えたのかもしれないが、どうすることもできなかった。
「本田、まだ残ってたのか」
担任の、アドナン先生がひょっこりと顔を出した。
「ああ、すみません、アドナン先生。もう、行きます」
ゆっくりと、最後の最後に彼の後ろ姿を目に焼き付けて、窓の外から目をそらした。立ち上がって、隣に置いていた鞄と、荷物を持つ。
アドナン先生はふうとため息をついて、にっと笑った。
「そんな細腕で。俺が持ってやらあ。」
彼と、放課後、ヴァルガス兄弟とアントーニョさんを待つ間、話すのも今日で最後だろう。
「ふふ、すみませんね、先生?」
「何だ、最後くらい普通に名前で呼べってんだ」
「あっはっは・・・・。サディクさん、ありがとうございます。いつもいつも」
歳のは慣れた彼は、幼馴染みで、彼が居るからこの学校を選んだと言っても過言ではない。
「はあ、寂しくならあな・・・・お前さんが居ねえとなると、俺もそろそろ辞めてもいいってことだけどよ」
「おや、辞められるんですか?・・・もしかして、例のお菓子屋さんを?」
彼の夢は、お菓子屋さんだ。見かけに似合わず、というのは言わない約束だ。
「・・・・・変わらないものって、ないんですね・・・皆、変わって行ってしまう。ずっと同じでは居られない、んですね」
友達でいたい、ずっとこのままでいたい。大人に成りたくない。この時間がずっと続いて、進まなくたって良いのに、否が応でも時間は進んでしまうから。
嬉しかった事も楽しかった事も、切なかった事も、いつしか曇りガラスの向こう、おぼろげな記憶に成って思い出になって、そしていつか、消えてしまう。
この一言の中に潜むおおきなものに気がついていたのか居なかったのか、サディクさんは、荷物を持っていない大きな左手で、幼かった頃と同じように、頭をゆっくりとやさしく撫でてくれた。
「あり、がとうございます・・・・ありがとうございました」
住み慣れたこの家、学校から帰る道筋。
彼を待って帰るのが遅くなった帰り道、初めて話した放課後。
いざ、離れるとなると、強く蘇るから困る。泣かないと決めたというのに、後から後から涙はあふれて落ちた。
「ロヴィーノくん、」
彼がゲームセンターで悪戦苦闘して取ってくれた携帯電話のストラップを撫でた。
あの日、皆でカラオケに行った帰りに、ゲームセンターに寄ろうとアントーニョさんが言ったのだ。フェリシアーノくんは皆でプリクラを撮るんだと言って聞かなくて、女子高生ばかりのコーナーに男4人でわやわやと入って行って視線が恥ずかしかった。ロヴィーノくんは、あれこれUFOキャッチャーで取ってくれるアントーニョさんにむすっとしながら、俺だって出来ると言って、何回もやり直してこのストラップを取ってくれた。
携帯電話の裏には、女の子の携帯電話みたいだねと言いながら、フェリシアーノくんが手ずから貼ってくれたプリクラが何枚もある。
「ふ、ぅうう、うえ、」
離れたくない、変わりたくない、そう思うのに、忘れてしまえば良いと思うのに、何も無かった事にしてしまえばいいのに、そう考える度に、皆でいた筈の記憶が、ロヴィーノくんだけ色を濃くしたように輝いてライトをあてて流れるのだ。
ああ、好きだったんだ、これが好きってことだったんだ。
そう思っても、遅い。
「菊兄・・・・耀さんがもう行くっていってるネ」
蹲っていたその地面に、影ができた。泣いているのを見ない振りをしてくれている。
「・・・はい。わかりました。」
家の鍵を最後に閉めて、従兄弟の借りた大きな車に乗り込む。
「・・・・・あの、耀さん。私、電車で行ってもいいですか?最後に一度、学校を見てから行きたいんです。サディクさんにももう一度だけ挨拶がしたいですし、グプタさんにも、ヘラクレスさんにもまだ言ってませんから・・・」
扉を閉めようとして、手が止まってしまった。
一度だけ、きっと彼はもう帰ってしまっているだろうけれど、一度だけ焼き付けてから去りたかった。
「・・・しかたないアルね。これ、持って行くアル。」
いつもケチな従兄は、こんな時だけ気前がよくて、電車賃を握らせてにんまり笑うと、さっさと発進していった。
昼間、帰って来た道をまた戻る。
挨拶がしたいというのはただの口実で、本当は、どこかで遊んでいるかもしれない彼らを、遠目にでも見たかったのだ。
会えなかったとしても、一緒にいた場所を目に焼き付けて、思い出さなくてもいいくらいに鮮明に見ていたかった。
ここの角が、いつもロヴィーノくんとフェリシアーノくんが迎えに来てくれた場所、あそこの踏切を超えたところがアントーニョさんとの合流地点。
皆で一緒にそこから歩いて、校門の手前まで、いつもロヴィーノくんが後ろに乗っけてくれていた。運がわるければここでフランシスさんが襲って来て、ギルベルトくんが頭を叩いてくる。ロヴィーノくんが2人を蹴って、それで怒るんだ。
今日で、お別れだ。
明日から彼らが過ごすのは、自分の居ない時間で、ロヴィーノくんもフェリシアーノくんも、あの角で私を待つ事は無いし、そりゃあ、明日は彼らは知らないから待ちぼうけをさせてしまうかもそれないけれど、アントーニョさんと私を抜いた3人で登校するのだ。
校門から眺めていた教室のある場所が、不意に窓が開いて、もう居ないと思っていたのに今一番会いたくて会いたくなかった人がいた。
「菊?」
彼がここまで来るのには時間がかかる。だから、その間に逃げてしまえば問題ないと思うのに、まったく体は言う事を聞かなかった。
早く行かなければ、彼がここまできてしまうのに、足が接着剤で付けてしまったみたいに、地面から動かす事ができなかったのだ。唯一できたことと言えば、首を動かして下を向くことだけだった。
「おい、どうした?・・・お前も忘れもんか?」
そうこうしているうちに、息を切らせてかれは目の前に迫っていた。
「え、あ、ははあ、そっ!そうなんです、ちょっと忘れ物を」
我ながら見え透いた嘘だ。声も裏返った。
「・・・・・あ、そうだ、あの、明日なんですけど、明日はちょっと用事があるので・・・一緒に登校できません・・・」
「何だよ、用事って?・・・病院かなんか行くのか?」
「そうじゃないんですけど、そういうことですから、待ってなくても平気です」
強引に押し切ると、ふうん、とむっと様子で答えた。
「・・・で、何でお前、こっち見ねーんだよ」
「・・・」
早くさっさと行ってくれたらいいのに、こんなところで妙に勘がいいのだ。
はやく行ってくれないと、涙がこぼれて落ちそうなのだ。
明日から自分の居ない時間を生きる彼らを思うと、胸が、息が出来ないくらいに詰まる。
「この前の・・・お前のこと好きっていうのは本当だし、お前が俺だけ見て欲しいと思ってんのも嘘じゃねーから訂正はしないからな。・・・でも・・・ソレが原因でお前と離れることになんのはごめんだし、お前が元気ないのも嫌だから、別に無理していい返事しようとすんなよ?」
涙が、落ちた。
どうせ明日からもう会えない。残酷だろうか、でも、いまこの気持ちを伝えたくなった。こんなに苦しい思いをさせた張本人に。
「好きです。」
涙でぐちゃぐちゃだろう顔ではっきりと見据えた、緑色の宝石みたいな眸は輝いていた。
この先枝分かれした道で、彼が誰かを好きになっても、一度だけでも自分を好きになってくれたこの事実さへ胸にあれば、それで十分だ。
初めて重なった唇は、とても熱く、湿っていた。
「本田さん、おはようございます」
夢だった図書館の司書になってもう何年か。
あの街にはそれから一度も戻っていない。
戻る事ができない、というのが正しいかもしれない。今も鮮明で、時には誇張されて目の前に蘇るその日々が、現実に時が流れた姿で目に映ったら壊れてしまう気がしてならなかったからだ。
あの後、幼馴染みのサディクさん伝てに、転校したのだと知らされた彼らは、皆、どうして言ってくれなかったのかと一様に落ち込んだと聞いた。ロヴィーノさんが一体どういう反応をしたのかは、知らされなかった。
「おはようございます。ティノさん、ビョルンさん、ベールヴァルドさん」
後輩の彼らを差し置いて、古株の自分は、図書館に一番乗りで出勤するのが密かな喜びなのだ。誰もいない図書館に、ひっそりと一人だけいるというのがどうしようもなく好きなのだ。
前に、あの学校に通っていた時、朝一番で図書館に行った事がある。
理由はなんだったのかは忘れたが、なにかで朝一番にいったのだ。
職員室で鍵を借りて、誰もいない図書館に入った瞬間、古い本独特の匂いだとか、埃が光に反射して光っているようすだとか、そういうのがどうしても好きでたまらなくなった。
それぞれの仕事を始める彼らを横目に、膨大な本を収納している本棚へと顔を向けた。
今も変わる事無く、記憶は鮮明だ。
彼は、今どこで何をしているんだろうか。誰か綺麗な女の人と結婚して、幸せな家庭でも築いているんだろうか。
あのとき側に居てくれた誰もが、きっとそれぞれ別の人生を歩んでいる。そっと目を閉じた。
「すみません、貸し出しをお願いします」
カウンター業務は忙しい。書庫とカウンターをひっきりなしに行き来して、貸し出しと返却、本棚に戻す作業を繰り返す。
はいはい、っと眼鏡をかけ直して顔をあげた。
その、先に。
「ロヴィーノ、くん・・・・?」
カウンターで貸し出しを待つ人のその向こうに、見覚えのある姿が見えた気がしたのだ。怪訝な顔をしているその人を、後ろのベールヴァルドさんに目線で任せて、追掛けた。
追掛けたのに、図書館を出てみたら、彼はもう居なかった。
あの日と同じように、夏の日差しが柔らかく陰り始めたオレンジ色の光が建物を照らしていた。
あの場所とは遠く離れたこの土地だ、まさか偶然でも再開する筈も無い。
少し疲れているのだろうか。そう思って、踵を返した。
あの日と同じように、涙が流れそうだ。
泣かないようにと上を向いたら、ほわほわと白い雲が風で流されていた。
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