死んだ花嫁
西日。
名前呼び、死ネタ、流血表現注意。軽く性的な描写あり。
名前呼び、死ネタ、流血表現注意。軽く性的な描写あり。
死んだ花嫁
「おはようさん!」
元気のいい声に、ハッと目が覚めた。
幻聴だろうか。と、いうか今何時だろう?ここは・・・自分の部屋・・・じゃあない。
自分の部屋にある筈の棚や本、などもないし、何より、自宅は敷き布団だが、自分がいま、寝ているのはふかふかのベッドだ。
何処だここ。そう思いながら、辺りを見回すと、見慣れた、日焼けした健康的な膚に、緑色の印象的な眸、整った顔つき、チョコレート色の髪をした、ラテン男、アントーニョ・ヘルナンデス・カリエドがいた。
「え、・・・え?アントーニョさん?」
自分の機能の記憶を引きずり出しても、彼の記憶は出てこない。
むしろ、彼とは昔いろんな事があった後、別れてずっとあっていない筈だったのだ。
自分の記憶の中では、彼とよく似た言葉、しかし違う言葉を使う彼と入れ違いにこのカリエドと別れ、それ以降いろんな男と会って来たが、この男とは街ですれ違うことすらなかった。
それが、いま、何故かここにいる。
「なんなん?そんなじろじろ見られたら恥ずかしいやん。・・・なんかついとった?」
全く持って恥ずかしくなさそうな真顔でそんなことを言い、彼は自然な仕草で扉を開けて、先ほどまで自分が伏していた辺りに、腰掛けた。
「ほんま。阿呆やね・・・・」
何の事かさっぱりわからないで首を傾げた。
とりあえず、ここが何処で、どうして自分はここにいるのかを聞かなくてはならない。
愛しげな空気を纏って頬を撫でる彼の大きなてを外し、じっと輝く緑色の眸を見上げた。
「あの、私、どうしてここに?ここはどこなんですか?」
「ん?覚えてへん?」
彼の声が甘い。脳裏に彼と過ごした蜜月がよぎったが、それは過去の事だから、今は彼がそんな声を出す理由がない。
素直に、すみません、分かりません・・・まったく・・・と言うと、アントーニョさんはこれ以上無いくらいににっこりと笑った。
「ええんやよ。覚えてへんでも。俺が覚えとるし。・・・・ところで、ご飯食べへん?親分特製のガスパチョあんねん。」
「あ、え?あの・・・・」
質問の答えは貰えないまま、彼に手を引かれるまま食卓につくことになってしまった。
心なしか、胸騒ぎがする。はぐらかされた、彼が隠した答えが、気になって仕方が無かった。
彼のガスパチョは見た目通りの美味しさで、他には甘いパンとコーヒーだけなのだが、とても充足感があった。
コーヒーアロマが部屋中に香り、弛緩した思考が体から力を抜いてしまう。
「ああ、美味しかったです・・・。」
「せやろ?この、ガスパチョのトマトはな、俺が作ったんやで!」
隣に座る彼はこちらに椅子の角度を合わせて斜めに座っているが、肘をついたその姿勢で、上手い事こちらににこりと笑ってみせた。
「ところで・・・」
「あ!しもた!もうこんな時間やん!俺、今から畑見てこやなあかんねん。片付けてもええ?ほんまにごめんな?」
また、どうして自分の記憶がないのか、ここにいるのかを訊こうとしたのだが、それが分かったのか、不自然にもほどがあるというのに、彼はさっさと席を立って、洗い物を簡単に済ませて勝手口から手を振って行ってしまった。
そうなると、怪しくてたまらない。調べたくなるのは人の性である。
意を決して、近くに置いてあった電話機から、自宅へ電話をかけた。
『・・・・はい、』
自宅には、自分は居ない筈なのに、受話器の向こうから声がした。居ないと分かっているのに何故かけたのか、と思ったのだが、受話器の向こうから聞こえた声に聞き覚えがあってどきりとした。しかし、その声がだれなのか分からない。
「も、もしもし・・・」
『?どちらさま?』
男の声は明らかに不信感を持っている。
それが分かって、慌てて名乗った。
「あ、えっと、本田・・・菊と・・・いいます。失礼を承知でお伺いしますが・・・あの、そちらに今住まれているのは、あなたですか?」
そう訊くと、明らかに相手の声が変わった。
『お前、何者や。悪戯電話やったらよそいってしね。本田菊語ってなにしよいうんか知りとうもない。』
一体、自分に何が起こったのか、この人は誰なのか、自分の自宅だった筈の場所に何故この人がいるのか、頭が混乱して上手い事働いてくれない。
しかし、確かに自分は昨日まで自宅にいたし、記憶のある場面で言えば、確かに昨日の夜、夕食は自宅で食べた筈だ。
「す、すみません・・・本田さんに・・・なにかあったんですか・・・。同じ名前で、仲良くさせていただいていたものですから・・・」
とっさにばかばかしい嘘を付いたのは、それしか思いつかなかったからだ。
受話器の向こうのその男は、声を詰まらせて、言った。
『あいつはな・・・2年前に・・・・のぉなったんや・・・。』
自分が、死んだというのはどういうことなんだろうか。
それ以上訊けずに、曖昧にお悔やみを述べて通話を切った。
頭が痛い。ふらふらして床にへたりこんでいたら、帰って来たアントーニョさんが酷く心配して、泣きそうになっていた。
「なあ、ほんまに大丈夫なん?どっかずつないことないん?平気なん?」
今にもその翡翠の眸から涙が流れそうなので、ただ、頭を振って答えるしか無い。
まさか、自分が死んでいることになっているとは思わなかったのだが、それを訊く勇気が、今は無い。
「すみません・・・ぼうっとしていて、滑ってしまっただけなので、気にしないでください。」
そういうと、少しほっとしたのか、腕を掴んだ手の、痛い位食い込んでいた爪がふっと緩んだ。
「そ、そうなんや・・・ごめんな、取り乱して。」
心なしか、声が震えている気がした。
その日から、訊きたいが訊けない、そんなふうにして日々が過ぎて行った。そのこと以外はなにも無く、誰が訪ねてくることもなく、まるっきり自分と彼だけの生活が続いた。
朝、起きて、彼が作った朝食を食べて、彼が畑仕事に出かける日は見送った後、自分は昼ご飯の用意をする。バスケットに入れて昼食を持って畑まで行き、畑の傍の大きな木下で昼食をゆっくりと時間をかけて食べ、たまにワインを飲んだりもする。その後、木陰でシエスタをして、また、起きて畑仕事をする日もあれば、家に帰って別な仕事をする日もある。
しかし、彼との暮らしはどこか歪で、隠し事と、不可解な事が多かった。
例えば、彼は夜中に成ると出かけて行くが、その理由を教えてくれないし、毎日どうして買物に行かないで暮らせるのかが分からないし、何より、あの日から、毎夜彼と体を合わせている自分が分からなかった。
夜、彼がどこかへふらりと出かけて行ったあとは、いつも、そして今日も、じっと暗闇を見つめてベッドで横になっているのだった。そうして次第に睡魔に飲まれて、まどろみの底へと沈んでいく。うとうととしながら、また浮上した意識にふと目を開けると、廊下の灯りをしょって、昨日と同じように、彼がベッドの上で、こちらを見下ろしていた。
「アントーニョ、さん・・・?」
目をこすりながら、呂律のまわらない舌ったらずなまま声をかけると、熱い彼の手が、頬を撫でた。
「ん・・・?どうしたんですか・・・?」
手と同じように、彼の唇はとても熱かった。
そうして、彼の手がこの貧相な体の隅々を隈無く辿り、舌が這う。彼の熱い手がこの身の密やかな箇所を愛撫して、気がつけば狂いそうな程に彼を欲している。
「アントーニョ、さん・・・!きて、ください、はや、く・・・!」
はしたないとは重々承知して居ながらも、双丘を自分の手で押し開き、見せつけるように脚を広げて彼を誘う。しかし彼はそれに幻滅することなく、反り返った一回りも大きな雄をまた限界までに張りつめて、勢い良く奥を突くのだった。
そして、何度も何度も「愛しとる、菊、愛しとるよ」と切なげに言った。
真夜中、彼が隣で寝息を立てているのを確認して、そっと部屋を抜け出した。
何故なら、自分がこの家から出た事がないのは当然ながら、この部屋と、リビング、キッチン、ダイニング、バスルーム以外、どこにも行った事が無かった。それが、何故なのか、自分にも分からなかったのだが、ハッと思い立ったのだ。
月の明かりのみの、暗い廊下を、いつもとは反対側に向かって歩く。廊下の先の、大きなハメ殺しの窓から見える黒い森と、月の光がとても綺麗だ。
きっちりと閉められた、未だ開けた事の無い部屋のノブに手をかけた。
ぞっと、訳も無く背筋に鳥肌が駆け巡る。
「・・・?」
頭の中で、これ以上先に行っては行けないと警鐘が激しく鳴っている。
ふわり、と真っ暗闇の部屋の中から、誘うように風が吹いた。
「・・・生臭い・・・」
どこかさびた鉄の匂いが、部屋の中から地を這って漏れだしてくる。
「血の・・・匂い?」
「何しとんの?」
一瞬呼吸を失った。ぎょっとして振り返ると、寝息を立てていた筈の彼が、じっと見ていた。
表情が消えたその顔に、心臓がばくばくと音を立てる。
「あ、あの・・・・」
「・・・何しとんの?そんなとこで。冷えるやんか。こっちおいな」
ここで、そのまま流されてはいけない気がして、差し出された手を握らずに、顔を背けた。
「私、どうしてここにいるんですか?自宅に電話をしたら、『本田菊』は二年前に死んだとのことでした。どうしてここにいるんですか、私。ここ、どこなんです?貴方は毎晩どこへ行っているんですか?」
思い切って矢継ぎ早に質問をしたせいで、息が切れてしまった。
正面に立っている彼の視線が、痛い位この身に注がれているのが分かる。
しかし、彼のあの眸を見てしまうのがとても怖かった。本能的に、見てはいけないと分かっていたのかもしれない。緑色の目が、底の無い井戸の中を覗くように真っ暗な穴のようになって、いつもは笑みを浮かべる口元が、力をなくして表情を消したその恐ろしい能面の顔を見てしまったら、彼が恐ろしくて、仕方なくなってしまう。
「・・・・ええよ。教えたる。その扉、開けたらええよ。」
アントーニョさんが、かすれた声で、そう言って、胸の前で合わせていた手を取って、ノブを押させた。先ほど体を重ねた時は確かに熱かった筈の手は、今は氷のように冷たかった。
高い、蝶番のきしむ音を立てて扉は開いた。緩やかに開いて、壁に当って止まる。
「・・・何ですか、これは・・・・」
月明かりの下でも分かるほどに一面に飛び散った血痕と、床にもきっと、相当の量だったのだろう血を拭った跡があった。これが、生臭い香りの正体だった。
どこかが立て付けが悪くなっているのか、冷えた風が部屋のその血の跡に残った匂いを部屋の外へと運んで行く。
「これが、何を意味しているのかなんて、さっぱり分かりませんよ・・・。一体・・・あなた、何をしたんですか?こ、こんな・・・!」
そこに死体があっても可笑しくないくらいに、強い血の匂いに、恐ろしくて脚が震える。
しかし、彼は冷静なままで、それが至極当然の顔をしていた。
「見えへんの?」
「何が・・・・、」
その先が、口から出る事は無かった。
彼の言葉に、反論しようとして、出来なかった。
窓際の、ベッドの向こう側に、座り込んだ誰かが項垂れてこちらをみているのが見えたのだ。
月が少し高くへ上って、その顔の、眸がきらりと緑色に光った。
そこに、座り込んで居たのは、いま、この手を掴んでいる筈のアントーニョさん、その人だった。確かに、今、冷たい手でこの腕を掴んでいる。感触がある。間違いない。
だというのに、確かにそこの壁に、もたれかかるようにして彼は力なく座っているのだ。
いつもの彼のお気に入りの白いシャツは何かでべっとりとぬれているし、眸にも、意思が宿ってはいなかった。
「どういう・・ことですか・・・・」
振り返っても、彼は何も言わなかった。
もう一度、座っているアントーニョさんを見た。
ああ、そうか、彼を殺したのは、私だった。
「は・・・はは・・・なに、してるんでしょう、私・・・こんな、どうして・・・でも、じゃあ、あなたはどうしてここにいるんです?」
彼を殺したのは、他でもない自分だ。彼の遺体はそこにある。
けれど、自分には実体をもっているように思える彼は、では一体なんなんだろう。
「もお、ええよ。・・・・ずっと、繋とめとってごめん。」
「どういう、意味ですか?」
ずっと黙っていたアントーニョさんは、壁際の彼と同じように、項垂れた。
「俺な、菊が俺の事殺してまうくらい好きなんやって分かって、めっちゃうれしかったんや。別れよって言ったけどな、俺もほんまは別れたなかったん。ずっと一緒におりたかったん。愛しとったん・・・ちゃうな、今もこれからもずっとずうっと愛しとる。やから、誰の物にもなって欲しなかったんや。」
言いながら、彼は血ぬれのベッドを愛しげに撫でた。
「せやけど、戻ったらきっと誰かが奪うんやろうと思ったら、死ぬ間際、めっちゃ腹立ってしかたなかってん。そんで、気がついたら、こんなことになっとった。・・・・何年経っとるんか、全然感覚あらへんけど・・・もお、ええんや。帰っても」
彼の言葉に、彼を殺した後の自分の行方を思い出す。
駆け落ちをした2人。私は死んだ事に成っていたから、おちおち外にも出る事はできなかった。夜、仕事へ出かける彼を、最初こそ良かったが次第に、愛あまって恨むようになっていた。帰って来た彼を殺して、自分も死んだ。
愛しかった、どこにも行って欲しくなった。たとえそれが、2人の生活を守るためだとしても、どんなときでもどこに行くにも、ずっと一緒がよかった。離れたくなかった。
私の骸は出てこないに違いない。きっと今頃鳥の餌となって、跡形も無いかも知れないし、どこかで朽ち果てているかもしれない。思い出せない。
しかし彼はそれを知らない。
私が、まだどこかで生きていて、意識を失っていると思っているのだ。けれど、私の在処は病院でも、どこでもない。現世には、いないのだ。それだけは分かる。
ならば、ここは幽霊の住処。やがてこの建物が朽ち果て、かれの体も野に消えても、ずっとともに居れるのだ。
そう思うと、久方ぶりに、心が凪いだ。
「私に、帰るべき場所なんて、ここ以外にありはしませんよ。貴方は知らないでしょうけど、私も、もう、死んでるんですよ。だって、あなた。ほら、私たちずっと一緒だって、言ったじゃないですか。愛してるって、言ってくれましたよね?貴方だけ殺して自分だけ生きているなんて、私がする分けないじゃないですか。だって、わたしは貴方と離れたくなくて、こんなことをしたんですから、ね」
「おはようさん!」
元気のいい声に、ハッと目が覚めた。
幻聴だろうか。と、いうか今何時だろう?ここは・・・自分の部屋・・・じゃあない。
自分の部屋にある筈の棚や本、などもないし、何より、自宅は敷き布団だが、自分がいま、寝ているのはふかふかのベッドだ。
何処だここ。そう思いながら、辺りを見回すと、見慣れた、日焼けした健康的な膚に、緑色の印象的な眸、整った顔つき、チョコレート色の髪をした、ラテン男、アントーニョ・ヘルナンデス・カリエドがいた。
「え、・・・え?アントーニョさん?」
自分の機能の記憶を引きずり出しても、彼の記憶は出てこない。
むしろ、彼とは昔いろんな事があった後、別れてずっとあっていない筈だったのだ。
自分の記憶の中では、彼とよく似た言葉、しかし違う言葉を使う彼と入れ違いにこのカリエドと別れ、それ以降いろんな男と会って来たが、この男とは街ですれ違うことすらなかった。
それが、いま、何故かここにいる。
「なんなん?そんなじろじろ見られたら恥ずかしいやん。・・・なんかついとった?」
全く持って恥ずかしくなさそうな真顔でそんなことを言い、彼は自然な仕草で扉を開けて、先ほどまで自分が伏していた辺りに、腰掛けた。
「ほんま。阿呆やね・・・・」
何の事かさっぱりわからないで首を傾げた。
とりあえず、ここが何処で、どうして自分はここにいるのかを聞かなくてはならない。
愛しげな空気を纏って頬を撫でる彼の大きなてを外し、じっと輝く緑色の眸を見上げた。
「あの、私、どうしてここに?ここはどこなんですか?」
「ん?覚えてへん?」
彼の声が甘い。脳裏に彼と過ごした蜜月がよぎったが、それは過去の事だから、今は彼がそんな声を出す理由がない。
素直に、すみません、分かりません・・・まったく・・・と言うと、アントーニョさんはこれ以上無いくらいににっこりと笑った。
「ええんやよ。覚えてへんでも。俺が覚えとるし。・・・・ところで、ご飯食べへん?親分特製のガスパチョあんねん。」
「あ、え?あの・・・・」
質問の答えは貰えないまま、彼に手を引かれるまま食卓につくことになってしまった。
心なしか、胸騒ぎがする。はぐらかされた、彼が隠した答えが、気になって仕方が無かった。
彼のガスパチョは見た目通りの美味しさで、他には甘いパンとコーヒーだけなのだが、とても充足感があった。
コーヒーアロマが部屋中に香り、弛緩した思考が体から力を抜いてしまう。
「ああ、美味しかったです・・・。」
「せやろ?この、ガスパチョのトマトはな、俺が作ったんやで!」
隣に座る彼はこちらに椅子の角度を合わせて斜めに座っているが、肘をついたその姿勢で、上手い事こちらににこりと笑ってみせた。
「ところで・・・」
「あ!しもた!もうこんな時間やん!俺、今から畑見てこやなあかんねん。片付けてもええ?ほんまにごめんな?」
また、どうして自分の記憶がないのか、ここにいるのかを訊こうとしたのだが、それが分かったのか、不自然にもほどがあるというのに、彼はさっさと席を立って、洗い物を簡単に済ませて勝手口から手を振って行ってしまった。
そうなると、怪しくてたまらない。調べたくなるのは人の性である。
意を決して、近くに置いてあった電話機から、自宅へ電話をかけた。
『・・・・はい、』
自宅には、自分は居ない筈なのに、受話器の向こうから声がした。居ないと分かっているのに何故かけたのか、と思ったのだが、受話器の向こうから聞こえた声に聞き覚えがあってどきりとした。しかし、その声がだれなのか分からない。
「も、もしもし・・・」
『?どちらさま?』
男の声は明らかに不信感を持っている。
それが分かって、慌てて名乗った。
「あ、えっと、本田・・・菊と・・・いいます。失礼を承知でお伺いしますが・・・あの、そちらに今住まれているのは、あなたですか?」
そう訊くと、明らかに相手の声が変わった。
『お前、何者や。悪戯電話やったらよそいってしね。本田菊語ってなにしよいうんか知りとうもない。』
一体、自分に何が起こったのか、この人は誰なのか、自分の自宅だった筈の場所に何故この人がいるのか、頭が混乱して上手い事働いてくれない。
しかし、確かに自分は昨日まで自宅にいたし、記憶のある場面で言えば、確かに昨日の夜、夕食は自宅で食べた筈だ。
「す、すみません・・・本田さんに・・・なにかあったんですか・・・。同じ名前で、仲良くさせていただいていたものですから・・・」
とっさにばかばかしい嘘を付いたのは、それしか思いつかなかったからだ。
受話器の向こうのその男は、声を詰まらせて、言った。
『あいつはな・・・2年前に・・・・のぉなったんや・・・。』
自分が、死んだというのはどういうことなんだろうか。
それ以上訊けずに、曖昧にお悔やみを述べて通話を切った。
頭が痛い。ふらふらして床にへたりこんでいたら、帰って来たアントーニョさんが酷く心配して、泣きそうになっていた。
「なあ、ほんまに大丈夫なん?どっかずつないことないん?平気なん?」
今にもその翡翠の眸から涙が流れそうなので、ただ、頭を振って答えるしか無い。
まさか、自分が死んでいることになっているとは思わなかったのだが、それを訊く勇気が、今は無い。
「すみません・・・ぼうっとしていて、滑ってしまっただけなので、気にしないでください。」
そういうと、少しほっとしたのか、腕を掴んだ手の、痛い位食い込んでいた爪がふっと緩んだ。
「そ、そうなんや・・・ごめんな、取り乱して。」
心なしか、声が震えている気がした。
その日から、訊きたいが訊けない、そんなふうにして日々が過ぎて行った。そのこと以外はなにも無く、誰が訪ねてくることもなく、まるっきり自分と彼だけの生活が続いた。
朝、起きて、彼が作った朝食を食べて、彼が畑仕事に出かける日は見送った後、自分は昼ご飯の用意をする。バスケットに入れて昼食を持って畑まで行き、畑の傍の大きな木下で昼食をゆっくりと時間をかけて食べ、たまにワインを飲んだりもする。その後、木陰でシエスタをして、また、起きて畑仕事をする日もあれば、家に帰って別な仕事をする日もある。
しかし、彼との暮らしはどこか歪で、隠し事と、不可解な事が多かった。
例えば、彼は夜中に成ると出かけて行くが、その理由を教えてくれないし、毎日どうして買物に行かないで暮らせるのかが分からないし、何より、あの日から、毎夜彼と体を合わせている自分が分からなかった。
夜、彼がどこかへふらりと出かけて行ったあとは、いつも、そして今日も、じっと暗闇を見つめてベッドで横になっているのだった。そうして次第に睡魔に飲まれて、まどろみの底へと沈んでいく。うとうととしながら、また浮上した意識にふと目を開けると、廊下の灯りをしょって、昨日と同じように、彼がベッドの上で、こちらを見下ろしていた。
「アントーニョ、さん・・・?」
目をこすりながら、呂律のまわらない舌ったらずなまま声をかけると、熱い彼の手が、頬を撫でた。
「ん・・・?どうしたんですか・・・?」
手と同じように、彼の唇はとても熱かった。
そうして、彼の手がこの貧相な体の隅々を隈無く辿り、舌が這う。彼の熱い手がこの身の密やかな箇所を愛撫して、気がつけば狂いそうな程に彼を欲している。
「アントーニョ、さん・・・!きて、ください、はや、く・・・!」
はしたないとは重々承知して居ながらも、双丘を自分の手で押し開き、見せつけるように脚を広げて彼を誘う。しかし彼はそれに幻滅することなく、反り返った一回りも大きな雄をまた限界までに張りつめて、勢い良く奥を突くのだった。
そして、何度も何度も「愛しとる、菊、愛しとるよ」と切なげに言った。
真夜中、彼が隣で寝息を立てているのを確認して、そっと部屋を抜け出した。
何故なら、自分がこの家から出た事がないのは当然ながら、この部屋と、リビング、キッチン、ダイニング、バスルーム以外、どこにも行った事が無かった。それが、何故なのか、自分にも分からなかったのだが、ハッと思い立ったのだ。
月の明かりのみの、暗い廊下を、いつもとは反対側に向かって歩く。廊下の先の、大きなハメ殺しの窓から見える黒い森と、月の光がとても綺麗だ。
きっちりと閉められた、未だ開けた事の無い部屋のノブに手をかけた。
ぞっと、訳も無く背筋に鳥肌が駆け巡る。
「・・・?」
頭の中で、これ以上先に行っては行けないと警鐘が激しく鳴っている。
ふわり、と真っ暗闇の部屋の中から、誘うように風が吹いた。
「・・・生臭い・・・」
どこかさびた鉄の匂いが、部屋の中から地を這って漏れだしてくる。
「血の・・・匂い?」
「何しとんの?」
一瞬呼吸を失った。ぎょっとして振り返ると、寝息を立てていた筈の彼が、じっと見ていた。
表情が消えたその顔に、心臓がばくばくと音を立てる。
「あ、あの・・・・」
「・・・何しとんの?そんなとこで。冷えるやんか。こっちおいな」
ここで、そのまま流されてはいけない気がして、差し出された手を握らずに、顔を背けた。
「私、どうしてここにいるんですか?自宅に電話をしたら、『本田菊』は二年前に死んだとのことでした。どうしてここにいるんですか、私。ここ、どこなんです?貴方は毎晩どこへ行っているんですか?」
思い切って矢継ぎ早に質問をしたせいで、息が切れてしまった。
正面に立っている彼の視線が、痛い位この身に注がれているのが分かる。
しかし、彼のあの眸を見てしまうのがとても怖かった。本能的に、見てはいけないと分かっていたのかもしれない。緑色の目が、底の無い井戸の中を覗くように真っ暗な穴のようになって、いつもは笑みを浮かべる口元が、力をなくして表情を消したその恐ろしい能面の顔を見てしまったら、彼が恐ろしくて、仕方なくなってしまう。
「・・・・ええよ。教えたる。その扉、開けたらええよ。」
アントーニョさんが、かすれた声で、そう言って、胸の前で合わせていた手を取って、ノブを押させた。先ほど体を重ねた時は確かに熱かった筈の手は、今は氷のように冷たかった。
高い、蝶番のきしむ音を立てて扉は開いた。緩やかに開いて、壁に当って止まる。
「・・・何ですか、これは・・・・」
月明かりの下でも分かるほどに一面に飛び散った血痕と、床にもきっと、相当の量だったのだろう血を拭った跡があった。これが、生臭い香りの正体だった。
どこかが立て付けが悪くなっているのか、冷えた風が部屋のその血の跡に残った匂いを部屋の外へと運んで行く。
「これが、何を意味しているのかなんて、さっぱり分かりませんよ・・・。一体・・・あなた、何をしたんですか?こ、こんな・・・!」
そこに死体があっても可笑しくないくらいに、強い血の匂いに、恐ろしくて脚が震える。
しかし、彼は冷静なままで、それが至極当然の顔をしていた。
「見えへんの?」
「何が・・・・、」
その先が、口から出る事は無かった。
彼の言葉に、反論しようとして、出来なかった。
窓際の、ベッドの向こう側に、座り込んだ誰かが項垂れてこちらをみているのが見えたのだ。
月が少し高くへ上って、その顔の、眸がきらりと緑色に光った。
そこに、座り込んで居たのは、いま、この手を掴んでいる筈のアントーニョさん、その人だった。確かに、今、冷たい手でこの腕を掴んでいる。感触がある。間違いない。
だというのに、確かにそこの壁に、もたれかかるようにして彼は力なく座っているのだ。
いつもの彼のお気に入りの白いシャツは何かでべっとりとぬれているし、眸にも、意思が宿ってはいなかった。
「どういう・・ことですか・・・・」
振り返っても、彼は何も言わなかった。
もう一度、座っているアントーニョさんを見た。
ああ、そうか、彼を殺したのは、私だった。
「は・・・はは・・・なに、してるんでしょう、私・・・こんな、どうして・・・でも、じゃあ、あなたはどうしてここにいるんです?」
彼を殺したのは、他でもない自分だ。彼の遺体はそこにある。
けれど、自分には実体をもっているように思える彼は、では一体なんなんだろう。
「もお、ええよ。・・・・ずっと、繋とめとってごめん。」
「どういう、意味ですか?」
ずっと黙っていたアントーニョさんは、壁際の彼と同じように、項垂れた。
「俺な、菊が俺の事殺してまうくらい好きなんやって分かって、めっちゃうれしかったんや。別れよって言ったけどな、俺もほんまは別れたなかったん。ずっと一緒におりたかったん。愛しとったん・・・ちゃうな、今もこれからもずっとずうっと愛しとる。やから、誰の物にもなって欲しなかったんや。」
言いながら、彼は血ぬれのベッドを愛しげに撫でた。
「せやけど、戻ったらきっと誰かが奪うんやろうと思ったら、死ぬ間際、めっちゃ腹立ってしかたなかってん。そんで、気がついたら、こんなことになっとった。・・・・何年経っとるんか、全然感覚あらへんけど・・・もお、ええんや。帰っても」
彼の言葉に、彼を殺した後の自分の行方を思い出す。
駆け落ちをした2人。私は死んだ事に成っていたから、おちおち外にも出る事はできなかった。夜、仕事へ出かける彼を、最初こそ良かったが次第に、愛あまって恨むようになっていた。帰って来た彼を殺して、自分も死んだ。
愛しかった、どこにも行って欲しくなった。たとえそれが、2人の生活を守るためだとしても、どんなときでもどこに行くにも、ずっと一緒がよかった。離れたくなかった。
私の骸は出てこないに違いない。きっと今頃鳥の餌となって、跡形も無いかも知れないし、どこかで朽ち果てているかもしれない。思い出せない。
しかし彼はそれを知らない。
私が、まだどこかで生きていて、意識を失っていると思っているのだ。けれど、私の在処は病院でも、どこでもない。現世には、いないのだ。それだけは分かる。
ならば、ここは幽霊の住処。やがてこの建物が朽ち果て、かれの体も野に消えても、ずっとともに居れるのだ。
そう思うと、久方ぶりに、心が凪いだ。
「私に、帰るべき場所なんて、ここ以外にありはしませんよ。貴方は知らないでしょうけど、私も、もう、死んでるんですよ。だって、あなた。ほら、私たちずっと一緒だって、言ったじゃないですか。愛してるって、言ってくれましたよね?貴方だけ殺して自分だけ生きているなんて、私がする分けないじゃないですか。だって、わたしは貴方と離れたくなくて、こんなことをしたんですから、ね」
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