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ひとすぢの焰

伊日←露
(最近の時事ネタ(デリケート)含みますのでご注意ください)
ひとすぢの焰





「えっ、」
突然、菊が腕を押さえて蹲った。
人通りの多いこの界隈へは、イタリアからやってきた自分のために、美味しい店を紹介してくれるとのことで、つい先ほど、美味しい日本食に舌鼓を打ったところだったのだ。
「菊?」
蹲ったまま、菊は動けないのか震えながら腕を胸の下に置いて息を詰めている。
その左腕は、そういえば、昨日も体を合わせた時、包帯が巻かれていた。
着物の袖から時折覗く位置に巻かれた包帯の白さが、痛々しいと思っていたのだが、何だろうとだけ思ってそんなに気にはしていなかったのだ。
背をさすると、ゆるゆると息を吐いて、小さく浅い息を繰り返す。
「・・・だいじょうぶ?ねえ、どうしたの?」
膝をついて、顔を覗き込むと、苦痛に歪んだ顔が見えてぎょっとする。
「き、く・・・?」
不安になって、押さえられた腕を取り上げると、小さな悲鳴と息を呑む音がして、こちらも驚きに言葉を失った。
菊の、その包帯の巻かれた腕は、包帯にも染みるほど、血が滲んでいたのだ。
「ど、どうしたの、これ・・・」
そう言ってから、思い当たってはっとする。
この、腕の傷。これは、確か刺青のようなものだった筈だ。
戦争が終わって、ようやく再会して、そして熱く体を合わせた時、今までには見慣れないその腕の刺青を見て、問うたのだが、それに対して、菊は悲痛にまで顔をゆがめて、これは呪いの刺青だと言った。
降伏した後、侵略を進めるイヴァンが、不気味なほどの笑顔をたたえながら、腕を掴んで引いたとき、皮膚の焼かれる痛みと匂いに悲鳴を殺して、もんどりうった。そして、それが終わってそこを見れば、忌々しく黒々とした焼き印が残っていたのだという。
「・・・・フェリシアーノ、くん、すみません、家に、帰りましょう・・・」
この後は、東京を観光することになっていたが、言われずとも、自分は家に帰るつもりだった。
「うん、うん!」
普段ならば、顔を真っ赤にして暴れるのに、今回ばかりは、抱き上げても声一つあげない。青ざめた顔が、痛みを耐えて眉間に皺がより、薄い唇は引き結ばれている。早々にタクシーを拾い、家路に着くと、タクシーの中でも虫の息な様子の菊に不安が募る。
家まではタクシーで少しかかる。しかし、着いた頃には青を通り越して真っ白な顔色になっている菊に、タクシーの運転手も、「大丈夫ですか、お客さん、救急車呼ばなくていいんですか。」と心配顔をしていた。
「きく、もう、家に着いたからね・・・?」
ぐったりとした菊に言うと、「すみません、」と力の無いかすれた声が返ってきた。
慣れた手つきで素早く布団を敷いて、寝かせる。羽織は脱がせて、ついでに着物が皺にならないようにそっと帯を解いて、襦袢だけにして上から布団をかけた。腕の包帯を解くと、かつて刺青だった場所は、それを上から刃物で抉りなぞったようになって、ひどい有様だった。
「ごめん、ごめんね、気がつかなくて、俺・・・・!」
涙が視界を揺らめかせるけれど、落ち着いた菊の声は、ゆっくりとそれを否定する。
「いいえ、これは貴方の所為では、ないんですよ・・・。イヴァンさんが、あそこに行ってしまった、みたいですね・・・。」
そういえば、少し前、上司同士が親しいからか、時々やってくるようになったイヴァンが、言っていた。彼の上司はそこにとってもご執心なのだと。そして、イヴァン自身も、菊を手に入れたくて仕方がないのだ。自分と菊がそんな仲にあると知っていながらも、「菊くんが欲しくて欲しくて、たまらないんだ、僕。ねえ、菊くんって、どんな声して鳴くのかなぁ」なんて、威嚇をしてくるくらいに。
「私は・・・いつか消えてなくなるんでしょうか・・・・」
彼の周りには、怖い人ばかりがそろっている。
自分の存在が、いつか消えるかもしれないと不安に脅えるそんな姿は、初めて見る。胸が痛い。
「・・・・・あの戦争のときは、消えてもいいと思ったのに、今になって、とても怖い・・・。」
いつのまにか、私まで平和ぼけ、してしまったんですかね、と笑う菊が、とても悲しかった。
「そんなことないよ。俺だって、もう二度と誰かの家に行かされたり、菊が傷ついたりしたり、そんな世界にもどって欲しくないもん・・・。」
そっと、菊の頬を撫でて、涙が落ちてぬれた瞼に口づけてその水滴を吸い上げる。
鼻を当てて、舌を菊の唇を舐めた。
「フェリシアーノくん・・・」
甘い、鼻にかかった声に、体が熱くなる。
抉られた腕を、そろそろと舐める。染みるのか、菊は小さく悲鳴を上げて腕に力を入れたけれど、抵抗はしなかった。鉄の味が咥内に広がる。誰もに流れるその味のはずなのに、なぜか菊のそれは甘く香しく感じた。
自分以外の他の誰かが、菊を蹂躙しているというのに耐えられないくらいに嫉妬が募る。元来自分は嫉妬深いのだ。けれど消えない傷を負わせてそれで拘束してつながっているんだという子供じみた感情は持ち合わせていないから、いっそイヴァンが哀れにさへ思えてくる。
「・・・大丈夫、今度こそ、俺、菊を守るから。」
なんとか、気持ちを明るく持ってほしくて、そういうけれど、きっと気休め程度にしかならないのだろう、自分の無力さを呪った。結局は、自分自身で答えを見つけて行くしかないのだから。時代や、上司に翻弄される自分たちのような存在の意義を悲しさに沈む頭の遠くの方で誰かが問うた。
「ありがとうございます。私も、今度はきっと、貴方を幸せにしてみせますから」
まだ血を流し続ける腕をちらりと見て、菊はにっこりと微笑んだ。
じゃあ、俺と菊が一緒になっちゃえばいいのに。そしたら俺は、だれより幸せになれるよ、そう思って、けれどそれは言わなかった。
菊の周りの怖い人、きっと自分もその中の一人なのだから。
菊が欲しくて欲しくて欲しくて欲しくてたまらないのは、誰よりも自分だと、そうおもって、けれど与えられる菊のすべてに口の端をあげて、獣が餌を貪るように、菊を食い荒らした。
日本家屋独特の隙間風が、冷たい冬を孕んだ匂いを運んで、部屋の温度を下げた。
けれど、呼び鈴が向こうの方で小さく鳴ったのにも気にならないほどに、体と思考は溶け出して、なにも考えられなくなって理性は遠くへ押しやられた。
この、菊の腕の呪いの刺青が、何度も何度も最奥を突いて中に熱く注ぐ自身の分身に負けて、消えてなくなればいいのに、と思った。忌々しくも所有を主張するそれが、本当にうっとうしく、憎悪を募らせる。
がりり、とこの背中に爪を立てて皮膚を抉るその痛みが、心地良い。
もっと、もっともっと、この白く細い、折れそうな菊の体に刻み付けて、きっと近いうちに会いに来るのであろうイヴァンに示したかった。

「やあ、フェリシアーノくん、」
やはり訪れてきたイヴァンに内心つばを吐きながら、「いつもの自分」を演じる。
「ヴェ!ひっさしぶりだね、イヴァン!」
隣の兄はとっくにイヴァンに辟易しているのか、挨拶もせずに椅子にふんぞり返ってぎったんぎったんと椅子を揺らしている。
「ねえ、この前、菊くんの家に行ったんだけど、どうして出てくれなかったの?君もいたでしょ?」
紫色の眸は、剣呑な空気を宿している。
「Quando?全然気がつかなかったよ〜〜。ごめんね?」
笑顔を崩さずに言うと、隣の兄が、ぎょっとしてこちらを見た。理由が分からず、頭の中で首を傾げながら、目の前のイヴァンを見やる。
「ふ〜ん・・・まあ、別に、いいけど。菊くんったら、呼び出してるのにちっとも出てきてくれないし。・・・それに、僕の家にいた菊くんの家の人、帰らせちゃうし。・・・・しかたないから、菊くん、僕のにしちゃうことにしたんだ。」
にんまり、傍目には無邪気で純粋そうなその笑顔の中に潜む物に、かねてから積もっていた苛々が揺れる。
「Assurdo!Ma vuoi scherzare?冗談はそこそこにしとかないと、菊に怒られちゃうよ〜!菊ってば、怒るとすっごい怖いんだから〜!」
今度は、不快を露にした顔で、ふんっと鼻で笑った。
「・・・まあ、いっか。そういうことだから。フェリシアーノくん、覚悟しててね。ちなみに、僕、手段は選ばないからね・・・。」
がたん、と乱暴に椅子を引いて、さっさと帰って行く。翻ったマフラーの端っこが目元にちらついた。
舌打ちを一つして、視線を感じて兄の方へ向くと、「その目、やめろ。顔も崩れてるぞ」と言われてはっとした。
この国はマフィアの国だ。自分だってそれを象徴する存在なのだから、そういう素質は十分すぎるくらいあるのだ。兄はそれが少し表に出過ぎているから分かりやすいのでそちら側に凝縮されているのだと思われがちだけれど、本当はどちらかと言えば自分の方が、それは強い。
「あ〜あ。こんなとこ、見せられないよ〜兄ちゃん〜!絶対嫌われちゃう〜〜!」
「・・・安心しとけ。言っておくが、日本にだって極道があんだろ。あっちゃ侍だから一般人に手出しはしねえが、相当だぜ?小指切り落とすって言うし・・・。」
それに、と続ける。
「そんな、器の小さいやつじゃあ、ないだろ?菊は。今度は守るって決めたんだろーが。」
「・・・うん・・・菊も、俺を幸せにしてくれるって・・」
その時の情事を思い出して、少し赤面する。あの高い震える声が耳によみがえる。
「じゃあ、いいじゃねえか。守り合えば。」
ふん、とつまらなさそうに、ロヴィーノは机を蹴った。
ぎいぎいと椅子の揺れる音がしんとした部屋に響く。
「A proposito……じゃあ、始めようか。・・・兄ちゃん、あと、よろしくね」



部屋を出る間際、小さい声で、「今度は離すなよ、」と聞こえたが、返事をする代わりに大きな音を立てて扉を閉めた。
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